グッドマン・インタビュー

その63 (1999年12月)

鎌田雄一


大杉登紀子 (篠笛、能管)

1971年3月30日、京都生まれ、京都育ち。
同志社大学、文学部文化学科哲学及倫理学、卒。
グッドマンには、'99年2月より、小佐野直樹g とのデュオでスタート。ソロ、松尾慧(笛)とのデュオ、一幸弘(笛)を加えてのトリオを経て、11月からはソロに加えてせんどうえいこ(p)とのデュオで毎月出演。

笛は何才の頃から?
 笛というより、初めはフルートでした。音楽高校に通っておりました。(以下、京都弁のイントネーションで、お読み下さい。)

音楽高校を出て、大学は倫理学というのは変わってますね。
 公立だったので、すごいスパルタ音楽教育でした。その中からまれに、音大なんか行かへん!と言いはる、はみだし者が出る。それが、私だったんです。
 皆、音楽を「音が苦」と言ってた程でした。
 只、今思えば良かったのは、管楽器の人は、たいてい始めるのが遅いので、まだ道を自分で変更する力が残っているんです。ピアノやヴァイオリンの人は3才の頃から始めて両親からスパルタ式に教育を受けている人が多かったので、音楽の道から、はずれたら、最後!……みたいな感覚でしたね。

大学を出たら、どんな仕事をしようか、とか考えていたの?
 全く考えてなかったです。
 もう音高で、おちこぼれた時点で、まさか自分がプレイヤーの側に立つ日が来るとは、思ってもみなかったんです。……ただ、反逆してみて、はじめて、自分には音楽が要るんや、と感じたんです。……そう思うと、ああいった音楽教育のあり方は、どうかな、と疑問を持ってしまいます。定期テストで演奏に点数つけられて、上位者は、ちやほやされて、とにかく、いい大学に行くとか、コンクールで、いい位置につくとか、ばかりが目標で、本当に、自分がしっかりしてないと、何の為に私は楽器をやってんの?ということになってしまいがちです。
 大学では哲学、倫理学専攻、とは名ばかりで、居合道という武道のクラブにあけくれ、その頃から西洋音楽は、わからんと割り切ってたような所があり、もっと自分の国のものを知りたいと思っていた。四回生の頃には、雅楽の横笛である龍笛をかじり始めていました。しかし、就職戦線に勝ち残れず、一年ほどふらふらしていた頃、龍笛を作る先生に会ったんです。弟子入りを果たしたのもつかの間、教えると言ってくれてはったのに、おけいこにうかがうたびに……こら、あかん……で、気がついたら、東京へ出て、所沢のフルート工場で、働いていました。フルートは日本が、世界のトップメーカーなんです。そして、工場は所沢近郊に集中しているんです。2年、つとめました。

篠笛の先生と、能管の先生との出会いは?
 篠笛は鯉沼廣行先生です。高校の時に、近くのお寺でやらはったのを聴き、日本の音楽って、かっこええやんって思ったんです。
 そのまま、その時の印象だけを持ちつづけていたのですが、なんとフルート工場の上司が、先生のところに通ってはったんです。しかも、私の入社した1月に会社に篠笛サークルが出来て、6月には先生の所へ直接通うことになりました。……どこに住んではるか何も知らないっま、自転車で通える所まで、自分は来ていたんです。
 能管は、一幸弘先生です。出会いは、これも京都です。平安建都1200年記念の年で、たくさんのイベントの中のひとつに「大田楽」というのがあり、私は笛部隊の一人として、先生はソリストとして東京からみえて、すぐ斜め後ろで、はじめて先生の音のうずにまきこまれて、あまりのすさまじさに、その後、数日、ぼおーっとしていたのを覚えています。衣装をつけてらしたので、男か女か、わからず、そのきゃしゃで色白の少年のような体躯から出る力強い笛は、神がかって、異様な衝撃でした。東京へ来て、やがて、先生のライヴに足しげく通うようになり、その頃は、まだ弟子でもなかったのに、ずい分かわいがって頂いて、ライヴに乱入させてもらったりして……。そのうち、能のおはやしを学びたいと思いはじめていたので、そのまま、先生の門を、たたいたのです。

自分でライヴをやりはじめたのは、いつ頃から?セッションなどの思い出などもあったら教えて下さい。
 新所沢にSWANというジャズスポットがあり、月一回のジャムセッションに時々、行ってました。3〜4年位前かな。皆がスタンダードジャズをやる中で笛を持って行って、「A minor一発で……」とか「無調でお願いします」とか言って、やってたんですが、ある日、ドラムと能管のデュオのとき、演奏中にお客さんが、ドヤドヤ入って来たんです。演奏が終るや、進行役の、おねえさんが「皆さん、ご安心下さい。SWANは普段は、こんなじゃありませんから……」と言ったんです。頭のかたすみで、プチッと音がしましたが、京女なので、がまんして、ニッコリしました。……でもそれで、はじめて、こういうの好きじゃない人が沢山いるのか、と気づいて、あまり、行かなくなり、ライヴを定期的にやるようになったのは、グッドマンが、はじめてです。それまでは、用意できたらやるという形で、自主コンサートがほとんどで、数も限られますが、グッドマンでは毎月できるしジョイントの相手が毎回、変わるので、次第にミュージシャンと知り合える機会も増えて来て、有り難いナァと思ってます。

では、ここで桜井さんからの質問で「篠笛をライヴハウスで吹く人というのは、現在すごく少ないと思いますが、何か、こだわりというか、心掛けていることは、ありますか?」
 篠笛というのは、一応一番大衆の中にあるもの、と本なんかには書いてありますが、それは地域の芸能の中で使われているからです。それぞれの地域でそれぞれに特色をそなえた笛が、その芸能の中で育てられてきたため、種類は、さまざまです。いわゆる、おはやし、です。他には、長唄(歌舞伎の下座)で使われています。能管は能楽ばやしで使われます。(長唄でも使われます。)
 横笛を手にして、気がついたことは、まず、楽器としての独立した曲がないということです。能楽や長唄にしても、演劇の伴奏なんですね。しかも笛は、その中でも飾りでしかなかったり……と、いう感じで……その……古典というならば、それだけを舞台で演奏しても成り立つのが難しいと感じます。役者がいなくても、シナリオがなくても、耳だけで聴いてて充分となるような曲が、ないのです。
 尺八は違います。本曲とかっていって、楽器として、ずい分発達してる様に思います。……横笛は……なぜでしょうね。
 ところが、笛は、素晴らしく表現力にあふれていて、ちらっと、おかざりで吹くだけでは、もったいないんです。そして日本の笛は、ここ数年のNHK大河ドラマのバックの音楽のせいか、しみじみしているというイメージが定着している様子ですが、もっと昔は、そうじゃなくて、"強い"というイメージでは、なかったか、と思います。こんなに歌口の大きくて、強い音のでる横笛は世界でも珍しいんじゃないですか。
 ライヴをするにあたって、まず、ぶちあたったのは、曲がない、ということで、仕方なく、曲を作りはじめました。一先生が重要な指針であるのは、今も変わりありません。
 私は、齢を召した方々だけじゃなくて、若い世代の人たちに、こんなに日本の笛は、かっこうよくて、色々なことが、出来るんだ、ということを……私の感じた興奮を感じてもらえれば……と、願っています。

グッドマンでは、11月からソロと平行して、せんどうさんとのデュオも、はじめるんですよね。どんな話を、しているんですか?
 うまい日本酒が手に入ったよー、とかの話が多いです。でも、私は飲めないんです。救急車で何度も運ばれてます。
 せんどうさんとは、グッドマンのライヴで対バンになって、声をかけられて頂いたんですが、おもしろい人です。すごく勉強家で。私の持ってった曲をアレンジして下さったりしてますが、私が最初の参考テープのとうりに吹かないので、ご迷惑を、おかけしてます。せんどうさんの曲も演奏させてもらったりしています。これからしばらくデュオでやって、刺激をいっぱいもらえる、と楽しみにしています。


大杉さんちは、新所沢から歩いて10分ぐらいの所。あの街も天沼に負けないほど、わかりにくい道並びです。帰りに、駅に近いと思って、教わった道と反対方向に行ったら、迷ってしまいました。でも、おかげで、古本屋をみつけ、川島雄三の洲崎パラダイスと浦山桐郎の私が棄てた女のヴィデオをゲット。ラッキー。次回は、ts, ひちりき, 他の岡部春彦さんの予定です。……四国まで行くわけにいかないから、どうしよう。

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