グッドマン・インタビュー

その76 (2001年1月)

鎌田雄一


 黒井 絹 (voice, g, うた)

1965年3月21日、山口県に生まれ、育つ。
法政大学 法学部 法律学科、卒。
グッドマンには、2001年1月より、毎月、ソロで出演。

大学時代は、どんな生活だったの?
 学生運動のさかんな大学だったので音楽系サークルに参加しながら、文化的な意味も含めた広い意味での学生運動に参加していました。……学生が自主管理している学生会館の運営を行ったり、自主法政祭の実行委員をやったり、サークル団体のひとつである全音楽団体協議会の事務局長をやったり。……私は、作詞作曲同好会というサークルに属していましたが、全部で21あった音楽系サークルの協議会で、市ヶ谷キャンパスの学生会館を獲得する運動の過程で誕生したものです。……
 その他、大学での活動を基盤にして、山谷、寿、釜ヶ崎、新宿等の路上生活者の支援運動を、行っていました。

現在の黒井さんのグッドマンでの演奏からは想像もできないけど、かなり政治的人間だったんですね?
 実にそうなんです。時代だったんじゃないでしょうか。当時はパンクロックの力が強い時でもあったし、音楽をすることと政治的な表現をすることが、どこかで不可分なものとしてあったと思います。

そのころ作っていた歌は、プロテスト的な歌詞だったの?
 いいえ、全く!プロテストソングを作るよりも行動してました。自分は、むしろ、魂をテーマとした歌をうたいたかったんです。つまり、それは僕にとってブルースということになるんですけどブルースを知りたかった。僕の魂の所在と立つ場所を見つけたかった、この国での最底辺の場所へ自分の体を持って行ったのも、そのためです。

山谷や寿町で見つけたものは?
 まずは、自分は何者か、ということでしょう。いずれにしろ、僕はその場所では、お客さんでしかなかったわけですから、私の生きていく場所では、なかったわけです。そうすると私はどうして山谷や寿町まで足を運ばねばならなかったのか、ということですね。自分の出自も含めて、そういった問題、自分の問題を直視しはじめたときに、私は山谷をはなれました。
 もうひとつは日本の最底辺から、日本という国家、社会だけでなく、たとえば、イスラム圏とのつながり……世界を知る手がかりを得ました。また、この日本という国が、西洋という色メガネで世界を見ていたし、私も知らないうちに、それを常識にしていたことを知りました。私は、かつてマルクス主義者でしたが、マルクスの世界観も含めて、そう感じています。

山谷を、はなれて、その後、どうしてたの?
 山谷をはなれることは、これまで存在した人間関係を一度白紙にもどすことだったので、私には非常にきつい体験でした。ある意味で普通の社会生活に復帰するという状態に直面したわけです。ただ、私には音楽がのこっていたので、それを足がかりにしました。それまで2番目、もしくは3番目の順位だった音楽が私の生きる目的の第一になりました。ほとんどの人間関係を清算したあとの私は、数人の親しい友人や、恋人をのぞいては、まったく孤独の状態でした。……私は音楽活動を再スタートするために、公園での演奏活動をはじめました。中野に新井薬師があるんですが、その裏の公園で夏の間、約3ヶ月、毎週日曜日、ひとりで演奏することを行いました。ここでの演奏もやがて知り合いが遊びに来てくれたり、友達が、お茶をふるまってくれたりするような場所になり、秋になって、さすがに寒くなってきて、公園での演奏は終りました。そうすると、うまいことにライヴハウスで発表する機会を得、2ヶ月に1度ぐらい出るようになりました。……そして、大体、同時期に東京を離れ長野県へ移住しました。

長野県へ、というのは、内的要因なの外的要因なの?
 両方ですね。内的には、一度東京をはなれなければならない、という事情があったのと、恋人が、たまたま長野県美麻村の廃校を利用した文化施設「遊学舎」に移住していて、そこの責任者が、私の居候を承諾してくれたことがきっかけです。4年ほど前のことです。

多田さんからの質問のひとつでもあるんですが、「どうやって生活してるんですか?」
 形態的には、日雇労働者として建築現場で働いています。
 もっと具体的に言えば、多田さんもよく知っている本木幸治という人が私の親方(社長)です。この人は、地元、松本の舞踏家でもあり、梅津さんと友人関係にあります。……正式名称は、アート&ビジネス本木組という所で、色んな旅人が出入りする面白い所です。今から20年前に本木さんと、松本に移住したヒッピーたちと、はじめたそうで、ひょっとしたら、ここは、もう日本唯一の、そういう場所なのかもしれません。他にも絵かき、木工職人、陶芸家などなど、様々なクリエイターが、生活費の足しにするため、ここへ仕事に来ます。

松本の音楽状況は、どうですか?
 まず、ライヴハウスは、地元の若者向けの東京志向のライヴハウスがふたつ、ジャズの生演奏を時々行う店がひとつ、あとはEONTAという'75年からずっと続いているJAZZの店があります。
 松本は、よくマニアの多い街だと言われるのですが、基本的にはプレイするよりも鑑賞する人たちが多い所だなと思いました。……地元の人たちとよりも、移住してきた人たちのコミュニティーとのかかわりが深いので、そこの話になりますが、松本郊外を含めた広い範囲での移住者同志でホームコンサートをひらくことは、よく行われています。飲み家兼レストランのお店で、ライヴも企画されることも、あるんですけれども、大低が、松本以外のミュージシャンを呼んで行うライヴです。
 私の場合は、行きつけの飲み家で会った人たちが、企画してくれたり、自分で場所も借りたりして行ってきました。ただ、私の場合、無名のよそ者であったり、まったくの即興音楽だった関係で、発表するのは、むつかしく、せいぜい、年2回できればいい、といった状況でした。2000年に入って、グッドマンで毎月やるようになってから、私の音楽は完成の方向へ向かいつつあるな、と思ってるんですけれども、'99年までは全くの過渡期にあったため、はっきり言って、パワーはあっても完成度の低い状態だったと思います。東京だと、そのような未完成の状態を含めて楽しんでくれるお客さんに出会える可能性が多少ながらあるのですが、松本の風土が、そうさせるのか、松本では地元の人も、移住者も、完成度が高いサーカスとか打ち上げ花火のような演奏を好むようになります。他には、より古典的に評価がはっきりしている音楽がうけるところだと思うんですよね。……だからゼロから何か新しいものを創るということには親しんでもらえないところもあるし、私の方の未熟さも含めて松本だけだと、やりづらさというのも正直言って、ありました。

じゃあ最後に、多田さんからの、もうひとつの質問で「音楽の幸せな瞬間て……?」
 私にとっては、自分のあらゆる苦悩から開放される瞬間と、自分にとっての内なる祈りに出会えて、それが他者に伝わった瞬間ですね。特に後者では、グッドマンでの昨年9月のライヴから、ギター主導だった私の演奏が、完全に声の演奏へ転換し、私としても新たに展開しはじめて、私の音楽の方向性に幸せと、よろこびを感じています。
 また、その時の演奏を、大島さんという埼玉の歯医者さんが、たまたま聞いて下さるということが、ありまして、彼のすすめで、北海道の音威子府村という小さな村で演奏することが出来ました。村では実行委員会を組んで私のコンサートを用意してくれました。9月の演奏の録音をダビングして、実行委員の宗原さんに送りました。あらかじめ、それを聞いていた彼は、約50人のお客さんを前に、私を、このように紹介してくれました。
 「……黒井さんは、自分のことを即興演奏家、ブルース奏者だと言っていましたが、私は黒井さんからいただいたテープをきいたとき、これはアイヌのユーカラだと思いました。みなさん、どうぞ、黒井さんの演奏を、耳ではなく、心で、きいてください。」
 私は、この言葉を演奏直前にきかされ、感激で胸がつまり、泣きそうになりました。私の祈りが伝わったことを確認する瞬間でした。


インタビューしてきて、このくだりに来た時、黒井さんの感激とは、別のものかもしれませんが、私も、ある種の感動で、涙が出そうになりました。……27年間、グッドマンという店をやっていて、本当によかった、と思います。音楽というものは、誰も純粋には求めていないように見えても、いつ、どこで、誰が、きいてくれるか、わからないですからね。次回はピアノの神田さんの予定です。

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