グッドマン・インタビュー

その85 (2001年10月)

鎌田雄一


 永山亜紀子 (詩、朗読)

グッドマンには去年の12月よりソロで出演。現在は中溝俊哉p,obとデュオで毎月、出演。

詩や文学を志向したのは、小さい頃から?
 生まれたら、実父が三ヶ月前に他界していて、代わりに、生前に書いたものの本がありました。自費出版した詩集と、仲間の方々が出してくれた著作物など、です。成長する過程で親のことを知りたい欲求や関心が出てきたので、漢字は読めないし、意味もわからないけれど、小さい頃から、手にとって触れたり匂いを嗅いだりして、遊んでいたことが、そもそものきっかけと言うことができます。

何故、大学を中退したの?
 「友」が見つけられなかったから、と今は言うことができます。

中退して「友」は見つかったの?
 自分の生を受容して、責任を持って生き抜こうと決めたとき、私に関心や、理解しようという興味を持ってくれる人々が、あらわれはじめました。

具体的に、何を、しようとしたの?
 現在やっているようなポエジィと、身体のパフォーマンスです。在学中、舞踏家の川尻育さんと知己を得て、舞台制作に関わったりしているうちに、私自身も表現活動をやりたくなりました。
 しかし、私は舞踏家を目指しているわけでは、ありませんでした。……では、何を、と問われると、演劇でもない、ダンスでもない、音楽家でもない。……漠然と、こんな感じ、というのだけがあり、それを模索してきました。

身体を使ったポエジィの表現なんですかね?永山さんにとって、ポエジィとは?
 私にとっては、一生かけて発見するものであり、書いたり、作ったりする以前に、まず生きるものです。

永山さんにとって、生きる、とは?
 そんな、哲学の根本命題を問われても困ります。これも一生かけて、と言うより、ふりかえってみて言えることでは、ないかと思います。

哲学的な意味で、たずねたんでは、ないのですが……。死ぬ直前にならないとポエジィも生きるということも、わからなくて、よく、今、自分の詩を朗読したり、ものを食べたりできますね?
 以前、ジャワ島に旅行した時、疑似死体験というか、死にかけたことがありました。自分が死んだのだ、ということを知ったとき「まだ、なんにもしていないのに!」という感覚や感情に圧倒されて、必死でもがいたのですが、どうやら無駄らしいと認めざるを得ない、認めよう。土と同化してしまおうとしたときの一瞬のなかの一瞬。闇にマッチを擦るような無音の擦火音を感じて、次の瞬間には立ち上がっており、「死にたくないよォ〜」と絶叫していたのです。「よォ〜」の「オ〜」が肉体の奈落から噴出して、頭上高くで花火の冠みたいに旋回していました。……それを想い出すとき、人と関わりながら、自分の中に根ざした生の動きのような種子を育てていこう、という決意が、あります。それは、ソロを始めた去年あたりから、ようやく芽生えてきたのです。年令を考えると恥ずかしい、のですが。

最近のグッドマンのライヴでは、身体を使わないで、自作の詩の朗読が中心ですが、何か理由があるの?
 母音の強烈な偶発的体験というのは、他にもいくつか、あります。それらは、ある特定の音を発語することを通して発現する、ある特定の情緒ではないか、と思っています。日本語なら「ア・イ・ウ・エ・オ・カ・キ・ク・ケ・コ……」と、それらを一つ一つ肉体から採掘し、流出させ検証する作業、これが必要だな、とインドネシアから戻ってきた直後に自分の思考から出たのですが、とってもたいへんそう、と思いながら、現在に至っています。
 ライヴの当初は、即興で意味のない声が出るままにして、一言とか、ひとつのセリフのようなものを生む、ということをしていました。その日、その時間、その立会人の中からしか生まれない私の声を粘土にして、何が出来るかわからないけれど集中して、粘って、あ、こんなのが出て来たよ、という感じでした。その頃は、タイトルを「あらかじめ書かれていない声、あるいは言葉、と身振り」と題してやってました。
 そうなってくると、「うた、ヴォイス」という表記が出来る方向に行くのでは、ないかと思われますが、私はそうなれず、すぐ行きづまりました。
 シナリオのような、あらかじめ書かれたものを用意した方が良いという考えのもと、何が使えるかな、と探したら、ずっと以前に、他人にも自分にも内緒にして書いていたものが見つかって、それを用い始めました。そうして、何回か続けてみて、自作朗読だから、何をやってもいいだろう、という意識に、あぐらをかいている傾向が濃くなってきて、最近、反省しています。次なる課題が起こっているのです。

他人にも自分にも内緒にしたいものが、ポエジィにあたるものに近いんですか?それを元にして作った詩を人前で朗読する。書くこと、と読むことの距離は、どのように、あるのでしょうか?
 ポエジィは、あらゆる所に偏在し、いかなる現象からも切りとられ、すくい出され滴るものだ、と思います。自分にも内緒にしていた、というのは、むかし書いたものを発見した時の心境そのものです。……緊張した人間関係の生活の中で、最も息を潜めて気配の薄いところで、したためていたのだなぁ、と後で実感したのでした。
 書いたものを、人前で朗読することによって、「これは、こういう意味だったのだ」とか「あ、こんな状態だったのだ」と、いった発見をします。自分をより深く知ってゆく行為なのかもしれません。

では、最後に、前回インタビューしたBAMBIさんからの質問で「8月、9月と、グッドマンのスケジュール表の表紙の絵を描いたそうですが絵を描くのにデッサンとか重要だと思いますか?」
 表紙に採用してもらっているイラストは、フリーハンドというか、まさに即興なので、デッサンはしません。あらかじめ、こういう感じ、というのがある絵柄の場合は、練習というか、下描きもすることは、あります。


ちなみに、今月号の表紙も、絵では、ありませんが永山さんの作品です。5〜6人の人に頼んでストックしてあるものの中から選んで使っているのですが、底をついて来ました。ノーギャラですが、表現の場としてドンドン店に持って来て下さい。ギョッとするようなものが良いです。

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