グッドマン・インタビュー

その94 (2002年7月)

鎌田雄一


 小瀬 泉 (ピアノ)

1967年7月2日、岐阜に生まれ、育つ。
早稲田大学法学部、卒。
グッドマンには、'01年1月より、鈴木ミワ(ピアニカ)とのデュオで毎月、出演。

てっきり音大出身かと思ったら、法学部出身なんだ。どうして、音楽の道に?
 私の場合、子供の頃に抑圧していた「ピアノを弾きたい」という欲求が後から噴出してきて、現在に至っているように思います。
 子供のころも、自分から親にせがんでピアノを習わせてもらったぐらいで、今から考えれば音楽は好きでした。自覚はありませんでしたが。ところが、せっかく習ったピアノでは、聞き覚えた曲をコピーで弾くことや、宿題以外の曲を勝手に弾くことを禁止され、理不尽な思いをしていました。
 中学校に入って、あまりに練習をしないので、ピアノの先生から、「音大を受けるなら受験用の先生に代わってくれ」と言われ、これ幸いとやめました。子供の頭では、音大に行ってピアノの勉強をするということはクラシックの演奏家になるということでしかないのだと思い込んでいたからです。当時の私にとって、クラシックのピアニストというのはダサい職業の筆頭でした。コンサートに出る時は、似合わないドレスを着て、演奏する曲目もショパンとかモーツァルトとかで、そんなしゃらくさいことは御免こうむりたいと思いました。小学校や中学校でも、自分がピアノを弾くことは隠していました。
 その後、高校になってバンドを組んだりして、自分の好きな音楽を演奏する機会が増えてはじめて、「どうやら自分は演奏することが好きらしい」ということを自覚することができました。
 20代前半から、「今後はどうするのか」と人に聞かれた時には、「ミュージシャンになる」と答えるようになっていました。でも、それは照れ隠しで言っていただけのことで、当時は音楽とは全く無縁の生活を送っていました。その反面、30歳までにミュージシャンとして人前で演奏してギャラをもらう、という一つの目安がなぜか自分の中で見えてきました。
 1996年の4月、路上で偶然見かけた野村誠さんの鍵盤ハーモニカの演奏に魅せられ、その場でセッションさせてもらいました。その年の10月、野村さんが結成した鍵盤ハーモニカオーケストラ・Pブロッのメンバーとして、新宿ピットインで開催されたミュージック・マージュ・フェスティバルに参加しました。それが今に至る音楽活動のスタートです。30歳までにミュージシャンになる、という根拠のない目的が達成されたのに気をよくして、次は32歳までに人前でピアノを弾く、ということを目標にしました。目標というより、その年齢でその程度になれなければピアノはやめて他のことをした方がいい、と思い、目安としての年齢を自分の中で設定しておいたのです。

グッドマンにレギュラー出演する前は、よく、しばてつさんのライヴにゲスト出演して、フリーにガンガン演奏してましたよね。今、デュオでは、曲を中心にやってますが、自分の中のバランスとしては、どうなんですか?
 しばさんのゲストで時々出させてもらっていたのは4-5年前ですね。当時は、フリーをやりたい欲求の方が強く、「今、自分が曲をやる必要はない」と思っていました。今はフリーより曲をやりたい欲求の方が強いです。
 ただ、素材としてはたまたま曲を使って演奏しているけれども、今の自分は音自体を追求するということの方に主眼を置いていて、形式を追求するということは今後また別の機会にやろう、と思っています。
 そもそも、10代後半から20代初めにかけての一時期、時間の感覚が狂ってしまったのが、フリーフォームに興味を持ったきっかけでした。時間の横の流れが微分のグラフのように感じられて、メロディーというものが全く耳に入らず、聴いて分かる音楽がフリージャズしかなかったのです。リズム感も狂ってしまったので、演奏できる音楽もフリーだけでした。しばさんにお会いした頃はまだその頃の感覚が残っていて、手持ちの方法の一つとしてフリーならなんとかなる、という安心感がありました。
 ただし、当時は、演奏の一つのまとまりの流れを把握するというよりは、瞬発力だけを頼りにして、一瞬一瞬を出たとこ勝負で演奏するスタンスだったと思います。そうした方法は今の自分の課題ではありません。

曲を使って、音自体を追求する、というのが、ちょっとわからないのですが、もう少し説明してもらえます?
 たまたま今は曲という形をやるのが面白いので曲をやっていますが、私にとっては、方法がフリーであれスタンダードであれ、目指すところは同じです。目指すところとは、音に作為を入れないということです。いいかえれば、演奏する側が何がしかの音響効果を狙い、その意図が透けて見えたとき、聴く側は音楽ではなく演奏者が狙った意図を聴くことになります。私が聴く側に立つ時、演奏者の狙いや関心が音のイメージに届かず、音響効果をもたらす技術に留まっていると感じたとき、私は音楽を聴いた気になれません。演奏者の作為ばかりが見えてしまうからです。
 欲しい音のイメージを持つということと、その音を実際に出すということの間には大きな開きがありますが、自分では、欲しい音のイメージに不足している時に、それを他の何かでカバーしようとしない、ということを心がけています。

たしかに、頭でっかちで作為的な音楽は不快ですね。一方で、イメージの理想が、あまりに低い場合も、うまく届いていればいるほど、つまらない。音楽の不思議、ですね。鈴木さんとのデュオを聴いていると、曲は、あらかじめ決めてなくて、小瀬さんがピアノでたまたま弾いたものに、鈴木さんが合わせて、アドリブしたり、曲に行ったり、してるようにきこえるんですが、それも、作為をなくすための方法なんですか?
 それは、違います。さきほど作為と言ったのは、演奏の態度についてのことで、実際の音使いとか、形式にまで広げて言ったのではありません。
 鈴木さんとのデュオでやっているやり方は、前のバンド「百姓時代」でよくやっていたものです。

曲を選ぶ基準は?
 鈴木さんと私が共通して好きな曲ということで、エリントンの曲をよく演奏しています。「与作」や「サザエさん」などを演奏しているのは、「世の中には名曲が沢山あるのに、ジャズのプレイヤーがジャズのスタンダードしか演奏しないのはおかしい」と考えたためです。本当はやりたい曲は他にも多数ありますが、現在の技術でできそうな曲という観点から選んで「与作」をやっています。そのうち田原俊彦の「ハッとしてGOOD!」や寺尾聡の「ルビーの指輪」などを演りたいのですが(田原俊彦のファンではありません)。
 ハービー・ハンコックが「今の時代のスタンダード」ということで「New Standard」というアルバムを出していましたが、日本人はなぜアメリカの昔のスタンダードばかりを素材として取り上げるのか、その方が不思議です。日本人の、今のスタンダードは、いわゆるジャズのスタンダードとは全く別の曲目ではないでしょうか。

今、ジャズのスタンダードといわれるものは、ほとんどが1920年から30年代に作曲されたもので、それを子供の頃きいたジャズマンが成長して、40年代から50年代になって演奏したわけですから、自分が若い頃きいたヒット曲を演奏するのは自然だと思う。ただし、今は、ジャズが伝統芸能化しているから、古い曲も、求められるでしょうね。
では最後に、前回の鈴木さんからの質問で「(1)もし10万円もらったら、何に使いますか?(2)移住(永住)するなら、どこにしますか?
(1) パソコンの借金を返します。
(2) 移住するなら、ベルリンかニューヨーク、あるいは沖縄か、日本の山の中。大都会か、ど田舎か、両極端がいいです。永住するなら、東京です。荻窪の辺りも、いいですね。


最後の答えだけ、手書きになってますが、別に意味は、ありません。ここだけパソコン使わなかったんですよ。
小瀬さんちは江古田。これ、ずっと、えこた、と思っていたら、駅の看板は、えこだ。でも、ホームから見える保育園の看板は、えごた。????。

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